昭和44年9月18日 朝の御理解
入力者=甲斐田誉(臼杵のご信者さん)
御神訓
「今月今日で一心に頼め、御かげは和賀心にあり。」
実に金光教的表現だと思いますネ、今月今日で一心に頼め、御かげは和賀心にあり、と今月今日と言う、もゥ、今月今日、ただ今と言う事でしょうネ、例えば、もゥ、一心に頼め、と、ここでは、金光様の御信心では頼んだだけではいけない事が分かります。どうぞ!どうぞ!と言う事だけではいけないネ、和賀心にあり!とおっしゃる。そこで、その和賀心ですけれど、和賀心の、言うと内容をネ、頂いて行きたいと、今日思います。和賀心と言うのは、どう言う事だろうかと、その内容には、どう言う様なものが有らなければいけんのだろうか、と、それは御理解二十六節に頂きますと、「信心には連れはいらぬ、一人信心せよ、信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが、皆、逃げておるぞ、日に日に生きるが信心なり」と、信心に連れはいらぬ、一人信心せよ、と信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが、皆逃げておるぞ、と、日に日に生きるが信心なり、成るほど、信心には連れはいらぬ、と、こゥ仰る、又は連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうがと、ここん所を頂いて、始めて、この、日に日に生きる事が信心だと、言う事が解る様な気が致します。日に日に生きると言う事は日に日にが無くなって行くと言う事ですネ、日に日に生きると言う事は毎日が誕生日ですから、それの前はなかったものですネ、日に日にさらと、三代金光様がそう言う御言葉で表現しておられますがネ、日に日にさらで御座います。と、仰るのは、もゥ、日に日に生きるが信心である事を体得して居られたんだと、思うんですネ、日に日に生きるが信心なり、ネ、そこに信心にはどうでも、これが必要な、日に日にさらと言う事がもゥ、絶対です、でないと、いわゆる、そのまァ、現代風に言うとマンネリになってしまうんですョ、ネ、信心が習性、習慣の様になってしまう。日に日にさらなり、新鮮さと言うものが信心にはどうでも必要なのです。日に日に生きるが信心なり、ネ、御かげは和賀心にあり、とこゥ、仰る、その和賀心の内容には、こゥ、言う処が必要だと言う事が分ります。和賀心、今月今日で一心に頼め、御かげは和賀心にあり、と仰るからネ、平和な心、喜びの心、と言う事にまァ、一辺に言ってしまえば、それだけですけれども、その和賀心の内容と言うものの、事になって参りますと、内容と言う事になって参りますと、日に日に生きるが信心なりと言う、あのゥ、日に日にさらなものネ、例えば、こうして朝早く起きて朝参りでもされてますと、なんとは無しに、さらな気が致しますネ、けれども朝起きて朝の清清しさと言った様なものに触れる事だけで、そりゃァ、あの、日に日にさらとか、日に日に生きるが信心なりと言った様な内容は同じじゃないんです。ネ、日に日にさらと言うものは朝、目覚ましの御かげを頂いてネ、本当に新鮮な空気を吸いながら教会参拝をさして貰う、そこに何とは無しに生き生きとした、弾んだ心が在ると、これはネ、信心じゃ無くてもいいんですョ、ネ、朝早う起きをして、家の衆はまだ皆、寝静まって居る時分に散歩でもして御覧なさい、それこそ、清清しい気が致しましょうが、ネ、斬新な気が致しますネ、だから、それでは無いのですネ、ここから、日に日に生きると言うネ、私どもの、いわば誕生が在らなければならんのです。それには信心に連れはいらぬ、一人信心せよと、そう言う処が必要な様ですネ、自分の頂いておる事、自分のしている事が人にも、。いわば押し付けがましゅうなったりしたんでは、和賀心の内容と言うものが欠けて来ると思うんですョ、私、昨日、娘達に話した事ですけれども、特に私は便所の下駄の脱ぎ揃えを喧しく言うんですネ、便所と言う所はあゝして良い所じゃ無い、だから、それ程に清潔にもしとかなければならないし、やはり、きちっとしとかきゃいけないネ、それで、これはもゥ一人一人の性質とか、性格と言うものが在りますから、きちっとする事が好きな人もあるけれども、例えば、それはきちっとはしてなくても、一向に気にかからん人が有る。こげん、きちっとしとくと気分が良かろうがと、言うても、自分は例えば、あの履物一つが乱れておろうが、きちっとしておろうが、さほど、ええも、悪いも感じん程しに、人が在るだろうと思うんです。余りにも乱れておる。私ども、そう言う意味あいでは、そのゥ、もゥ、これがこゥ、よがんで居ったら先が進まれん、どう言う、けたたましゅう便所に行く時であっても、私は絶対に下りる時に履物は綺麗に揃えて下ります。便所に行く時に行きがけに、どんなにけわしかった時でも、もゥ、じゃなかったら前に進まれんと言う気がするんですョ、で、私が便所に行く時は、その見とって、必ず行きがけに揃えて行きますョ、必ず五足有るなら五足ネ、そして帰りがけには、又自分の抜いて上がる下駄を揃えて上がりますネ、だから、それが始めの間はですネ、自分がそんなに言うなら、几帳面ちゅうかネ、その、きちっとする事が好きなんだから、人にも、あゝろく疎なかネ、こゥせんか、あゝせんかと、せん事がそのゥ、気になると言う事になりますとですネ、その几帳面な性格を頂いて居る為にイライラしたり、もやもやしたり、せんならんのですから、こんな馬鹿らしい話はないです。几帳面で在るが故にです、もゥ清潔であるが為ににです、清潔好きで在るが為に人がその清潔で無いと、もゥ不潔に見えてたまらん、それがもやもやしてこたえん、私が一人で片付けよるごたる、そのものを感ずる。だから、これではネ、つまらん、唯自分自身で、そうしなければいけない、そうする事にその、まァ有難いものが感じられる為に連れはいらんのです。信心に連れはいらぬ、信心と言う事は神様に向かう事が信心じゃ、なんですョ、拝んでいる事が信心じゃないのですョ、全ての事に、何事にも信心になれョと仰るのですから、便所での下駄を揃える事にでも信心になって居る訳でしょうがネ、勿論それをほんなら教えてはならないと言う事はありませんよネ、そりゃ自分の心の中には、あんたどん、ろく疎なかと言って怒るのじゃなくてネ、こゥした方が良かろゥが、こゥしなさいョと、ネ、繰り返し繰り返し教える事は、私はいい事だと思います。けれども、それを責めるとか、そゥで無い事が、もゥどうして、ろく疎なか人じゃろうかと、言うて自分の神経を傷む様な事であってはですネ、それがまァ下駄を抜ぎ揃える位だから良いのですけれども、これがもっと、もっと大きな、重大な事になって参りますとですネ、許せないと言った様な事になっては、つまりませんからネ、この辺の所が信心には連れはいらぬ、のです、自分が教えを行じているから、人もそゥしなければならんと言う事は無いのです。良く言われます、信心のいわゆる、御教えを責め道具にする。お前達は信心をして教えを頂いて、教えが何処に在るか、今日は先生はこゥこゥ言いなさったろうがと言うて、その、いわば教をその人を責め道具に使う。これではつまらんのです、頂いて帰って自分自身が頂いたら良いのです。私は信心に連れはいらぬ、と言う事はそゥ言う様な事だと思うネ、それでもその自分のして居る事が信心であると自分で信じて居るならです、それが本当だと思うならです、それが出来てない人にです、色んな感情の無い時に教える事が向こう入って行く様な時にそれを、それも、やはり教える事ですから一辺じゃいかん、繰り返し繰り返し、それを教えると言う事はいい事だと思いますネ、私はこの二十六節の信心に、連れ入らぬ、一人信心せよと言う事は、意味が他にも、御座いますけどもネ、何事も信心になれョと仰る、その信心に自分がなって居る事に人まで巻き込んで行こう、人まで連れて行こうと言う事は、これは良くないネ、良くないと言う事というか、それで自分の信心の心と言うものを汚す様な事で有ってはつまらんと思うですョネ、信心のなかんばっかりはもゥどんこんされんと言う様に自分の心を汚して行ったんではつまらん。信心の有ると言う事が自分が信心に何事にもなれて居る、と言う事が有難いと言うだけで好いのである。だから今日、私が言う和賀心と言う、その心の内容には、そゥ言うものも要る訳ですネ、信心に連れが要れば死ぬるにも連れが要ろうがと仰る。何事にも信心に為れよと言われる事にですネ、自分が信心になって居るからと言うて、どうでも、人を連れて行かにゃならん、自分と同じ、ざしなければならにならなきゃならないと言うのは信心に連れが要る様なもの、ネ、それでは、そこには信心のいわゆる、今日私が言う和賀心と言うものが、ここから生まれて来ないのです。私がこれだけきちっとしよるとに、貴方が片っ端から、ろく疎にしてからと言うて、もゥ心を汚しとったんじゃ、どうですかネ、もゥ和賀心にはなれないでしょうけれども、自分自身が信心になっておる事が有難いと思うから、和の心が、我の心ネ、相手を責めない和の心、自分の信心を頂いておる、と言う事が、自分がきちっと出けておると言う事が有難い。信心さして頂く御かげで、これが自分が出けると言う、有難いと言う、和賀心の内容作りにある、と言うかネ、皆逃げておるぞ、ともゥ一々喧しかネ、そこん処が難しいかネ、あんた達ちゃ、もゥ、幾らも言うて聞かしたっちゃ解らんの、ちゅうてこれば叱る様に、怒る様に言うと、又、それこそ言う事をきかんのと、又親父が喧しゅう言うちゅう事になって来る、みんなが逃げておる。有難い信心での事から逃げて行くです、みんながネ、そこで日に日に生きるが信心なり、ネ、その都度、その都度に自分と言うものが無くなって行く。自分が無くなっておるから、人の足元なんか見えませんネ、先日、昼の四時の御祈念の時に、ヱー昼顔と言う花がありますよネ、あれはあの作った、作るものじゃ無いです、朝顔とか、夕顔と言うのは作りますよネ、昼顔というのは、あの土手なんかに、こゥ、あぜ道なんかによく咲いております、小さい朝顔と同じ様な花ですけれど、小さい形の花が野生のものですネ、それがよく野原に咲いています。今ごろ昼顔、言うならネ、朝の清清しさ、昼の忙しさ、夜の有難さ、とこゥおっしゃる様に朝顔は何とはなしに、今申します様に朝の清清しい有難さって言うものがある。それは丁度、朝露を含んだ朝顔の花にも似た様な心の中にいわゆる、新鮮なものがこゥ、生き生きとして来る。それが段々時間が経って参りまして、いよいよ、仕事に没頭して、いよいよ、忙しうなって来る、しかも午後の二時、三時、四時と言う事になって来ると、こゥ毎日まだ暑さがつ続きますと、心が何とはなしに、だれて来る、私が朝の四時の御祈念、とそれから昼ここを下がる時に御祈念をさせて頂く、そすと、四時に金光様が御退けの時間を私のここでは御祈念にさして頂いておる、これは殆ど、私と修行生の方達が御祈念するだけです。これは、きちっと大体30分間、もちろん、お祝詞も上がりません。只、御神前で額ずかして頂いているだけですけれども、その30分間がですネ、言わば、さァお食事を頂く、眠気が来る、だァっとなって居るというのをネ、ピシッと引締めてくれるんです。御祈念が、御神前で、そのずゥっと、その30分間の御祈念がです、又朝の御祈念の時の様な信心の喜びと言うか、信心の引締まった心と言うのが、その時に神様、昼顔を見せて下さった。昼顔を見せて下さった、昼顔の花、昼にもやはり花が咲くんです。忙しい中にも花が咲くのです。暑い、きつい中にも又、心が引締まって来るんです。花が萎れてはいないか、そう言う意味で私は御神前に額ずく、御祈念と言う事は有難いと思うですネ、だから、ポンポン拍手打って拝むだけの様な事では、そう言うものは取り戻す事は出けませんネ、其の為にはやっぱり、きちっとやはり紋付、私で言うなら紋付、羽織、又着付け直してネ、顔でも又洗うて、そうして四時の御祈念を頂く訳なんです、ネ、それが例えば夜の有難さと言った様なものに持ち込んで行く事が出来るのです、私は取分け大事な事はですネ、いわゆる、このお芝居でも映画でも、見とってから、その幕切れと言うのが一番大事です。ネ、これを、もちっと大きい深い意味で言うと人間は死ぬ時が一番大事です。一生の幕切れと言う時が一番大事です様にです、日々のです、いわゆる、最後の夜のラストシーンが一番大事なんですネ、御礼を申上げる処は御礼を申上げる、お詫びをする所は御詫びをさして頂いき、ネ、繰り返し、繰り返し今日一日の御礼を申さして頂いておると尽きぬ程の有難さが湧いて来る。今日も一日御かげを頂いて有難いネ、そう言うですネ、私はその、締め括りと言うものが大事、例えば心の中にイライラ、もやもや、しながら眠る、口争いしながら寝る、とてもこげな事で御かげの受けられる筈は有りませんよネ、もゥ本当に最後の最後の処を大事にしなきゃいけませんですネ、いわゆる、取り分け、その最後の所を、いわゆる信心になれよ、と言う信心にならにゃいけませんネ、そこにです、今日一日も有難かった。いわゆる朝の清清しさに、昼の忙しさ、夜の有難さ、朝は朝顔の花のような、ネ、昼は忙しい中にでも、この様なシャンとした心に信心の喜びの花が持てる、夜ともなると、それこそ、もゥあのゥ、夕方からほのぼのと、こゥ咲いて行く夕顔の様に、それこそ妖しいまでの花を付けていくです。開花していくですネ、私はもゥ本当にあの晩、やすむ前の御祈念の時には本当に妖しいまでの有難さをここに感じます。本当にそゥです、ネ、大体こげん有難か信心が今日一日ででけとった筈じゃないと思うんですけれども、そのラストを大事にするとですネ、そう言うものが心の中に頂けれるんです。有難い、有難いなァと、とにかく、家内にどんなに考えても、有難い事ぞ、ともゥこれが、おんなじ言葉ですけれども、それにもゥ千万斤の重みのある様な、あれが、どんなに考えても、有難い言葉、それが有るんです。だから、私は朝の又、清清しい目覚ましの御かげが頂けると思うんです。私はねぇ、一心に願え御かげは和賀心にあり、とネ、今月今日で一心に頼め、と御かげは和賀心にあり、と仰せられる、今月今日で一心に願え、御かげは和賀心にあり、とそう言う簡単な事の様ですけれども、今日が私が申しました、もっと、もっと本当を言うたら、微妙なもので御座いましょうけれどもですネ、今日私が申した様な内容がですネ、私しゃこの和賀心にと言うのにはなからなければならんと、思うのです。そゥ言う心に御かげは有り、とおっしゃる。和賀心ネ、今月今日で一心に頼んで行くと言う事はネ、そう言う和賀心になります様にと言うて願っただけではつまらんのです。その和賀心にならせて頂く、その内容、何事にも信心になれヨ、と言う、その信心の処、その処を大事にして行かなければいけない。それを私は信心に連れはいらぬ、と言う事、例えば私は便所の昨日の脱ぎ揃えの事で例を申しましたですネ、そこん所を一心に頼んでいかなければいけない。そう在らせて頂くと言う事を一心に頼んで行かなければいけない。信心が責め道具になっちゃァならん、信心を頂いておると言う事が有難い、だから、これには例えば、連れの入ろう筈がない、ネ、どんなに忙しがっても、せめて、朝、昼、晩の御祈念とネ、自分の心の中に、朝は朝、昼は昼の、例えば花が咲く様な一つの、まァ、信心さして頂く者の心得と言うか、心掛けと言うものがネ、そう言う様なものが必要である。ネ、それが例えば、20分、30分御神前に額ずいたからと言うて、決してその日のマイナスにはならない、そう言う私は信心の習慣と言うものを付けて行く、それも唯、習慣になってはつまらんから、それを更なものにする為に自分を空しうして行く修行をさして貰わなきゃいけない。日に日に生きるが信心なり、ネ、そう言う私は生き方をすると言う事が信心なのだ、ネ、同時に日に日に生きると言う事は日に日に、そこに誕生して行くと言う事であるからネ、もゥ、夜の御祈念の時には今日一日の有難さと、もゥ、終わりとネ、片っ端に帳消しにして行く、お礼も、お詫びも、無くなって行く、そこに許された喜び、それこそ、妖しい迄の私が喜びと、こゥ、申しましたが妖しい迄のその喜びが明くる日の誕生に繋がるのである。日に日に生きるとか、又はネ、日に日に更、とこゥ仰る、その更な心に繋がるのである、ですから朝起きすれば清清しいと言う、それとは大変内容が違う事が分りますです、ネ、朝早起きすると、そりゃ、お神様参りじゃ無くたって、自分の近所ば散歩しただけだってネ、福岡の荒戸の元総代をしておられた、或る方が、ここへ参って来られてから、もゥ、私しゃ金光様参りは止めたちゅうて、朝参りを、もゥ長年続けよったばってん、もゥ止めました。その代わりに私しゃ、大濠公園ば一周散歩される。丁度朝御祈念に参るだけの時間がかかる、これの方が余程いいチ、御賽銭もいらんし、御初穂もいらんし、と言うて、ここで言われるんですよネ、唯朝参りがですネ、朝参りの習慣を付けたり、朝の清清しい気分になれるからだけの事だったら、大濠公園の一周ぐりぐり回わたって理屈はおんなじじゃけどもネ、謂わば、更な信心とか、日に日に生きるとか言う様な事、いわゆる和賀心の内、内容と言うもの充実して行く為にはネ、いわゆる、朝早う起きて散歩どんした位な事で頂けるものじゃない、と言う事をですネ、解らして貰わなければいけません。今日は「今月今日で一心に頼め、御かげは和賀心にあり」とネ、だから私共、御かげを本当に頂きたいのであるから、この和賀心と言うものを本当に頂く為の研究をしなきゃいけん事が分ります。和賀心に御かげは有るのですから、ネ、参れば頂けるものと言う様なものじゃ無いのですから、和賀心と言うのはネ、その御かげを頂けれる和賀心、その事を一心に今月今日、頼んで行くと言う事は今月今日刻刻をです、例えば、今日私が申しました二十六節から、この内容について頂いた訳ですけれど、この二十六節の内容に有ります様な信心が身に付いて行ったら始めてです、日に日に更の心も、日に日に生きるとはこう言う事だと、言う事もです解らして貰う。そう言う内容が在っての和賀心でなからなければならない。そこに和賀心の実は約束されるんだと、信心には連れはいらんと、ネ、自分が頂いた教えを自分が行じておると言う事を、なら、私にも、家内にも、子供達にもネ、それを、言わば責め道具に使うと言った様な事では和賀心は生まれないけれども、自分がその事を行じておられると言う事が有難いと言う信心、ネ、そこから、あの和賀心の内容と言うものがあります、ネ、勿論、その御かげは和賀心にあり、と仰る和賀心の内容と言うものは、もっと、もっと、深いもので有りましょうけれども、いかに私どもが日々の信心の内容と言うものを、充実して行かなければ、この和賀心と言うものは頂けないんだと、ただ、朝の清清しさだけを、充たしておるんで有ったら、もゥ、昼はしぼんでしまっておるんだと、そこに一つ工夫がいる。それを今日私はネ、御祈念と言う、御祈念、そこに昼顔の花が咲く様なネ、そして夕方の、又は夜の有り難さとか、夕顔の花が咲く様な有り難さに、夜の有り難さに持ち込んで行く事の為に、そこん所が又、必要で有ると言う事、そう言う中から和賀心と言うものが生まれて来るんだと、だから、成るほど、簡単で無い事が解ります、ネ、和賀心と言うものは、教えは今月今日で一心に頼め、御かげは和賀心にあり、あゝそんなら自分の心が和らぎ、喜でおりさえすりゃぁよかっですネ、其れだけなんですけれど、それが中々頂けない。やはり、そう言う内容と言うものを、に、精進さして頂いて居らなければ、和賀心は頂けません。その和賀心に御かげはあるので御座いますから、ネ、そう言う御かげならばネ、いよいよ自分と言うものが日々空しゅうなって行く稽古、そう言う信心の中からですネ、取り分け大事にしなければならない。日々最後の締め括り、言わば、ラストシーンが大事だと、こゥ、言う事を申しましたが、ラストの所で有難い。そこから明くる日の新しい、所謂、日に日に生きる信心が約束される。そう言う繰り返しがですネ、私共の一生を締め括らして頂くネ、いわゆる、最後の時に現れて来るラストシーンに出て来る、どんなに途中が華やかで有っても素晴らしかってもですネ、どんなに良いお芝居であっても、良い映画で有ってもです、イヨイヨその幕切れの所がお粗末であったらですネ、あゝ良かったと言うものが生まれて来ない、途中はあんまり、そうで無くてもです、ラストシーン、幕切れが、例えば、素晴らしいと言うと、あゝ良かったと堪能する事が出来る様にですネ、取り分け、私は一日の中の一番最後の所の締め括りをですネ、有難いで締め括られる様な一つ工夫を、何とか凝らして行かなければいけないと、思うんでございます。どうぞ!!